当院の縁起

慶長八年
現在の日本橋小伝馬町に開山

 当山は、慶長8(1603)年(江戸幕府開府の年)に、仙林坊日惶上人により現在の日本橋小伝馬町に創建されました。

 宗祖を日蓮聖人とし、日什(にちじゅう)上人門流である日蓮宗の寺院で、山号を泰昭山(たいしょうざん)、寺号を壽仙院(じゅせんいん)と称します。もともとは、小伝馬町一帯に所在した四丁四方(現在の浅草寺くらいの規模)の広さを誇る江戸・法華経弘通の道場、常樂寺の塔頭寺院として、本寺(常樂寺)と共に常樂院日經上人(京都妙満寺第二十七世貫首)により開山されました。

 日經上人は江戸に五十ヵ寺もの寺院を創建しており、当山はそのうちの一ヵ寺です。当山開祖、仙林坊日惶(にちおう)上人は常樂院日經上人の愛弟子として、秘書的な役割を果たしていたのではないかと考えられます。日經上人の書状には、「取次 仙林坊」として署名が多く記されています。往時は仙林坊(せんりんぼう)という寺号で通っており、常樂寺の学問所的な役割も果たしていました。しかしながら、慶長13年(1608)、江戸城において行われた法華宗の日經上人と浄土宗の廓山和尚との宗論対決で、日經上人が問いに答えられなかったことから、幕府の命により常樂寺と当山は破却(慶長法難)されることとなりました。

浅草壽仙院 竹灯籠 浅草壽仙院 竹灯籠

明暦の大火の後、浅草に移転

 しかしその後、歴史にも名が残る明暦の大火(1657年・俗にいう振袖火事)がありました。その際、当山は常樂寺と共に隠密裏に現在地に移転し、再興されています。このとき、温情ある幕府寺社奉行から、「常樂寺と仙林坊は一度破却されているので寺号を改めては如何か」との勧めがあり、それに従ったようです。

 本寺である常樂寺の住職は、知見院慶印日忠上人の御名から「慶印寺」と改称し、当山住職である壽仙院日好上人も仙林坊という寺号から「仙」の字を取り、寺門・檀信徒が相携えて「壽福仙永」(幸せなことが永く続きますように)を願う寺院として、御名と共に正式に「壽仙院」と改めました。

 日好上人は当山中興の僧でもありました。文献をひもとくと、延宝5(1677)年当時に存在した鐘には、【寺内安全】と、檀信徒および参拝者の【利益無窮】が、【師範僧 壽仙院日好】の御名と共に刻まれています。地域の人々と共に歩み始めたお寺の姿が浮かび上がってくるようです。それ以降、壽仙院は【浅草田圃のお寺さん】として親しまれるようになりました。

幕末から大政奉還後

 幕末の頃の当山は、正面に慶印寺本堂伽藍、左手に壽仙院本堂伽藍と稲荷社を祀り、右手には寛受院がありました。山門は現在の西浅草三丁目交番付近にあり、慶印寺、壽仙院、寛受院の三ヵ寺の入口としてそびえ立っていました。しかし当時の面影を残すものはなく、現在では唯一、古い井戸が当山勝手口の左側に吸気口を残してあるのみです。

 大政奉還後、寺院の本末関係(幕府が仏教教団を統制するための制度で、本寺と末寺のつながりをいう)がゆるやかになり、明治28年(1895)には当山が官製地図にようやく表記されました。当時は慶印寺が本寺であり、塔頭であった当山は寺院として独立していなかったため、本末関係がゆるやかになったと同時に官製地図に掲載されることになったのです。幕末から明治期にかけては、頻繁に住職の交代があったこと、すなわち帝国政府の方針であった廃仏毀釈の影響で、当時全国に二十四万ヶ寺あった寺院が三分の一程になったことから、相当な混乱があったことが見て取れます。

浅草壽仙院 墓地 浅草壽仙院 墓地

大正から昭和へ 
浅草の地で関東大震災からの復興

 大正9年(1920)には、千葉から草鞋を抱え、経典を持して当山に学僧として仕えていた森川泰修上人(のち幸昭院泰修日絖上人・権大僧正)が当山第31世住職として入寺し、本堂大修繕を施しました。
そして翌年、前述の三ヵ寺の合併が策されましたが、泰修上人の強い意志により反対、当山のみ浅草の地に留まりました。この時、当山も郊外に移転していたのであれば、恐らく他寺に合併され、この浅草の地には存在しなかったでしょう。

 浅草の地に留まり、安堵したのも束の間、大正12年(1922)の関東大震災により本堂・庫裡が瞬く間に損壊してしまいました。大正9年の本堂大修繕からわずか3年後のことでした。それでも檀信徒各位の外護を得て、直ちに再建、本堂・墓地共に整備され、御本尊も震災犠牲者供養の心を込めて一塔両尊四菩薩が造立、開眼供養されました。昭和2年(1926)のことです。また、墓地も当時としてはごく希な、土葬ではない近代的な特設墓地として、東京府(当時)認可第1号を得て造成されました。これだけでも驚異的な復興を遂げたことがわかります。

東京大空襲 
御本尊、納骨堂など焼失を免れる

 以降、浅草は寺町としての面影を残しつつ、大衆文化の華が開き、遊興の地として栄えるようになりました。当山も「町のお寺」として人々と共にありましたが、それも束の間、時代は戦争へと突き進みます。
昭和16年(1941)には、国策に沿って顕本法華宗より日蓮宗に合同しました。大東亜戦争に突入すると、当山も例外でなく檀信徒各家より出征兵士を出しました。
昭和20年(1945)3月10日、東京大空襲により境内は焼夷弾攻撃にさらされましたが、御本尊、納骨堂、墓地は一切無事で、難を免れました。しかしながらこの日は、当山の檀信徒の方が最も多く亡くなった日でもあります。

総本山 身延山久遠寺から木材八十石が下賜され現在の本堂が建立

浅草壽仙院 昭和37年頃

 戦後間もない昭和27年(1952)、泰修上人が再建のために東奔西走、総本山である身延山久遠寺から木材八十石が下賜され、その木材によって現在の本堂が建立されました。これは町の一般寺院としては大変稀なことでしたが、物資や資金のない時代に、檀信徒の皆様の負担を少しでも軽減しようとした泰修上人の努力を垣間見ることができます。現存する当山本堂は、総本山身延山久遠寺周辺にあった木材を運び再建されている意外にも大変珍しいものです。

 そして平成元(1989)年、当山第33世である森川蓮光法尼(のちの蓮光院日利法尼)の時代に、現在では採掘不能である岡山県の万成石を用いて外塀大改修を行いました。この万成石を用いた外塀は寺院では大変珍しく、女性ならではの意匠といえます。

 さらに平成19年(2007)年以来、現当住職が新規に墓地を造成し、ようやく平成26年(2014)年には、客殿・庫裡の再建を行い、現在に至っております。いずれも当山総代・檀信徒の皆様の並々ならぬご尽力があってこそ、今日の景観を保ち、日々の法事やご葬儀を執り行い、またさまざまな活動ができています。

浅草壽仙院 本堂 浅草壽仙院 本堂

浅草 壽仙院は皆様と共に

 江戸初頭、徳川幕府開府のときより四百年余、幾多の難を乗り越え、寺運が衰退することなく、現在まで脈々と法灯は受け継がれています。ご参拝の皆様には、お題目をお唱えして、お釈迦様、ご先祖様に感謝の祈りを捧げていただくと共に、何より幾多の苦難を必ず克服し、大難は小難、小難は無難へと転じつつ、絶やされることのない寺門の運気を皆様が授かり、日々ご精進していただくことを切に願うものです。

 皆様に親しまれる、皆様の寺院として、浅草・壽仙院は皆様と共に歩んで参ります。